『あした死ぬ幸福の王子―ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」』
著者:飲茶(やむちゃ)
発行年:2024年6月
発行所:ダイヤモンド社
ページ:279ページ
分類番号:134.9ヤ
この本を選んだきっかけ
誰かの予約で回ってきた本。
ロイヤルブルーに金色の文字の装丁で、とてもきれいだった。一目ぼれ。
「幸福の王子」といえば、銅像の王子が自分の体に使われている金や宝石を、燕に頼んで貧しい人々に届ける話だ。
イソップかグリムかのお話かと思っていたが、今調べたら違った。
イギリスの作家オスカー・ワイルドが書いた童話だった。
オスカー・ワイルドはほかにどんな話を書いたのか調べると『ドリアン・グレイの肖像』他とでてきた。
この題名は聞いたことがある。読んだことはない。
私は哲学と名の付くものが割と好きだが、理解するのは難しいと常日頃感じている。
(『14歳からの哲学』(池田晶子著)を、14歳からだからわかるかも、と思い大人になってから読んだが、よくわからず挫折した経験がある)
ハイデガーの哲学は知らなかったので、この機会に読んでみたくなった。
そして「幸福の王子」があした死ぬとはどういうことかと気にもなって予約した。
本の概要
副題に”ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」”とあるように、ストーリー仕立てでハイデガー哲学を順に説明してくれる。
主人公は幸福の王子ことオスカー。(幸福の王子の作者オスカー・ワイルドにちなんでいると思われる。)
オスカーが不思議な老人と出会い、毎日のように講義を受けながらハイデガー哲学を学んでゆく。
オスカーは贅沢に育ち傲慢で鼻持ちならない人物だったが、老人にハイデガー哲学を学び、一人の貧しい女性と親交を深めるうちに生き方が変わっていく。
感想
オスカーという王子が主人公で最初はオスカーを描写しているが、話がいよいよ始まった時から一人称が「私」に代わる。
老人からはお前とか若者よ、と呼ばれ、いつの間にか自分もオスカーとともに考えながら読み進めていく仕掛けになっている。
一緒に考えると言っても考えさせられすぎることはなく、結論をあっさり言ってくれたり、割とすぐ答えを提示して、それからじっくり説明をしてくれるスタイルのためとても読みやすい。
サクサクと進む。
おそらく、そうとうに難しい話を、著者がそうとう煮詰めて、そのエッセンスだけを取り出して簡単な表現に置き換え身近なたとえ話に落とし込んでくれているおかげであろう。
ハイデガーの哲学は難解だとされているらしいが、そのための工夫だろうと思った。
なのでこの本だけでハイデガー哲学を理解した気になってはいけないと思う。
ハイデガー哲学の難しさ
ハイデガー哲学が難しいといわれるのは造語が多いから。
例えば人間とは言わず「現存在」というなど。
まずその言葉を理解するステップが加わるため、複雑さが増し難しいと感じた。
造語が出てくる理由は、今までにない概念でものを考えるため。
既存の概念に引っ張られないため。
しかし繰り返すがこの本では、難しい造語や専門用語をわかりやすい表現に置き換えてくれ、たとえ話を交えて話してくれるので理解しやすいと思う。
人間以外は道具
たとえば芝生や雲なども。
道具=取り換え可能な存在つまり役割?
役割は交換可能。
「人間は本来、周囲のモノを道具として見る存在である」
「人間は周囲のモノの可能性を問いかける存在である」
「人間とは、自己の固有の存在性を問題とする存在である」
「自分がどんな存在であるかを問いかける存在である」
~以上全て本文より引用
上から順に、水色の文章はすぐ下の黄色の文章に言い換えると理解しやすい。
厳しい考え
「おしゃべりと好奇心が、本来的な生き方を遠ざける ~本文より引用
好奇心=さまざまな情報により刺激される
日々、その時その時、次から次へといろんな情報が入ってきて、それについておしゃべりしている時間。
その時間は楽しいが、あした死ぬとわかっていたらそんなことをして過ごしたいか?
ただ情報を消費するだけの時間より、もっと他にしたいこと、すべきことがあるのでは?
人は余命をつげられてもなお今日死ぬとは思わない、という言葉に本当にそうだなあ、甘いなあ自分たちはと感じた。
実際に今日すぐ死ぬとは考えられなくても、そう考えて生きないといつまでもおしゃべりと好奇心を続けてしまうということだ。
いつか来る死を思うのではない、今この瞬間にも死ぬかもしれないと覚悟すること。
良心=負い目
自分に良心があるかと問われれば、あるかどうかおぼつかなくても、負い目があるかと言われればわかる。
これはわかりやすい例えだと思った。
負い目は有限性への扉
自分の人生何なのか、は生きている間はわからない(死んだら、死んだからわからない)
ハイデガーの教えでは、自分の人生は何なのかという問いには絶対に答えを出すことができない。
なぜなら人間は死ぬ瞬間まで何が起こるかわからないから。
死んで完結したとき意味も価値も定まるから。
そしてある人の人生が終わってどんな人生だったかわかったとしても、もうその人生を経験する人は死んでいるので、わかることはできない、という意味だ。
それが人間の在り方だという。
なるほど、その通りかもしれない。
しかしハイデガーの教えを理解できたとしても、どう生きたらいいのかの正解は当然提示されないので自分で考えるしかない。
その自分で考えた生き方も合っているかどうかわからない。
それはともすれば、途方に暮れやる気をなくし投げやりな気持ちになる理由になるかもしれない。
でも見方を変えれば、人生が終わるそのときに悔いがなければすべてOKということだと思う。
それまで失敗したと思っていても、後悔していたとしても、最後の時までに挽回すればいい。
たとえ罪を犯したとしても、最後の時までに懺悔して償えば、その人の人生は魂が成長した良き人生だったということになるのではないか。
ここでひとつ大事なことがある。
それは、自分の”死”を、いつか来る、まだ遠くにあるものと考えないこと。
物語の中で先生は、今この瞬間にも生きている保証はないと言っており王子も何度もそう思おうとしていた。
しかし現実的には次の瞬間というのは考えにくいから、まあ明日の朝起きたら死んでるかもしれない、くらいで思っておけばいいかもしれない(死んだら起きられないけど)。
これらのことを踏まえると結局、毎日、今日をかぎりと思って生きないとだめだということになる。
明日起きられる保証はないと思えば、一日を誠実に生きられるかもしれない。
喧嘩したら今日のうちに謝るとか、あしたの楽しみを今日のうちに味わえるものは味わってしまおうとかすれば充実した毎日になると思う。
こうやって結論だけ言葉にすると使い古されたよくある言葉になってしまう。
昔から言われていることで、日常的に聞くような言葉かもしれない。ただのきれいごとに聞こえるかもしれない。
が、そこにたどり着くまで一から教えを読んで自分で考えてみるとありふれた結論も納得することができた。
この本の王子も、老人から教わったことをひとつずつ理解していき、その教えを身をもって落としこみ、自分の頭と心で本当にわかったとき自分の幸福に気づいた。
その場面がとても感動的で涙した。
奇跡は救い
ハイデガーの哲学は厳しいと感じる人もいるという。
確かに”自分の人生が何だったのか、わかることはない””人生の正解はわからない””それでも生きていくしかない”と言われたら突き放されたように感じる。
それでも、一瞬一瞬を最善をつくして生きていくしかない。
予測できない人生をそれでもあきらめず、投げやりにならず、最後までがんばるしかない。
そんな私たちの人生にはときどき奇跡のような素晴らしい出来事が起こることがある。
一生懸命生きている私たちに訪れる奇跡。
この物語の中でもいくつか奇跡というか巡り合わせの不思議、のような出来事が起こっている。
王子とツバメが巡り会ったこと。
マッチ売りの少女のその後。
それらは迷い、悩みながらも自分で決断し実行した行いが自分たちの人生を動かし、他者を動かし、世界を変えたということ。
正解はわからないが、ある人の行いはある人の人生を変える力があるということ。
だからこそ、最善を尽くして生きることをあきらめてはいけないのだと思う。
ときには思いもよらぬ形で他者に影響を及ぼすこともある。
良かれと思ってしたことが裏目に出る可能性もある。
でもときに奇跡と呼ばれるほど、素晴らしいできごとが起こることもあるのだと思う。
だから恐れないで生きてゆきたいと思った。
そして奇跡は、救いだと思った。
正解のない人生、でも瞬間をそのときの最善で生き切っていけば、こんな奇跡が起こることもあるんだよ、という著者のあたたかい思いを感じた。
印象的だったこと
「人間は、存在を語れないにもかかわらす、存在を理解している不思議な存在である」
私が印象的だったのは、この言葉の意味ではなく”言葉がわかるということは、その言葉を理解しているということ”ということ。
このように書くと当たり前だが…
例えば、「存在」という概念をうまく説明はできないが「存在している」ということは理解している、というような。
私たちは日常で「存在」という言葉を使っているし、その言葉を聞いたときに当たり前に意味がわかる。
これって考えてみればすごく不思議なことだ。
自分は取り換え可能な道具だというに等しい
自分のことを紹介するとき、”町長です”とか”果物屋です”と紹介する人がいたとする。
町長だとか果物屋というのは肩書で、そう聞くとわかりやすいが、それは”自分は交換可能だ”と言っているのと同じ、という視点が新鮮だった。
自分の肩書で自分を印象付けようとする人は、肩書を拠り所にしている(ときに自慢している)印象を受けるが、それが自分を取り換え可能な道具だと自ら認めているという皮肉。
私も含めて多くの人は気づかない又はそうは思っていないのではないだろうか。
むしろ”町長である自分はかけがえのない存在だ”と思っている。
かけがえのないのはその役割だけ。
装幀について
私が一目ぼれしたロイヤルブルーに金色の文字の装丁は、目を惹く美しさだが、物語を読むと意味があることに気づく。
ロイヤルブルーは宝石のサファイヤの色。
サファイヤはこの物語の中でオスカー王子が身につけていた大きくて貴重な宝石で(その宝石が付いた靴のかかとには金の板もついていた)、自分が銅像になったときにも両目にはめられた、王子の象徴であり富の象徴でもある。
ここからは余談でネタバレだが…銅像になった王子がサファイヤの目を貧しい人に与え、結果自分は目が見えなくなったが、ツバメ(ヒルダの生まれ変わり)が王子の目の代わりになった。
王子が生前、ヒルダの目を見えなくした因果が現れていると思った。
まとめ
この本はハイデガー哲学のエッスンスを、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」のストーリーを借りてわかりやすく
語ったもの。
哲学の全体像はもっと奥が深いに違いなく、正直王子のように自分の腹にハイデガーの哲学落とし込んでちゃんとわかったかといえば、まだ自分は頭で理解しただけで、実感としてはわかっていないかもしれないと思う。
しかしこの著者が語る「幸福の王子」のストーリーは、厳しく感じるハイデガーの哲学に救いを与え、それを読んだ私に生きる勇気をくれた。
正解がわからないからこそ、おそれずに生きていこうと思えた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
